快諾

 「腐っても鯛」これを外国のことわざで言うと「古くてもベンツはベンツ」  昨日、人間ドックに行くために、ある女性に送り迎えを頼んだ。内視鏡の検査で鎮静剤を使うから運転は御法度らしい。そこで送り迎えを誰かに頼まなければいけない。当然第一番目に頭に浮かぶのは妻だが、妻はずっと以前から予約していた歯医者さんの治療の日だから、あっけなく断られた。ところが僕には強力な助っ人がいて、ある女性に連絡すると、と言うより薬をとりに来たときに送り迎えを頼んだ。すると1秒で快諾してくれた。  彼女は、最近ベンツを買った。夢のベンツなのだが、これがまた古くて安い。何故そんな値段かと思うが、片手でも余るほどだ。僕は交通事故死だけは嫌だから、小さな車には基本乗らない。日常さまざまな分野で贅沢はしないが、車だけはぶつかっても死なないようなものに乗り続けている。それを一番の理由で彼女に頼んだのだが、彼女は牛窓に嫁に来てからずっと僕の薬局を利用してくれている人で、恐らくどこの誰よりも、勿論家族を含めて、断トツ話した時間が長い。病弱で、家族にも恵まれず、悲惨な幼少時代を力強く生きてきた人だ。当然アウトサイダーみたいな青春を送っているが、それに似合わぬ純情を持っていて、毎日1時間から2時間、10数年会話を重ね、意図はしないが僕の知識の移譲ができた人だ。中学校で、ろくに勉強をしていないだろうが、知識を蓄積していくとより魅力的になる。健康だけでなくそうしたお役にも立っているだろうなと思っている。結婚して子供をもうけてからも、家庭内のストレスを僕のところで発散しては帰っていった。そのおかげか、子供たちも全員成人して幸せに暮らしている。  だがあまりにも古すぎるので乗ってみるまで心配だった。ところがいざ走り出すと、彼女が自慢するようにとても滑らかな走りだった。まるで滑るように走った。その感想を言うと彼女は喜んでいた。幼い時に、ベンツを見つけたら近寄って眺めていたそうだ。当時は本当のお金持ちしか買えなかったが、今はそこまで高くない。庶民でも無理をすれば買えるし、こんなに古いものだったら嘘の様な値段で買える。「いつかはベンツ」の夢をかなえた彼女に甘えてタクシー代わりになってもらった。  考えてみれば不思議なものだ。どんなときも僕は家族に断られたら彼女に頼む。体験した苦労の質が違うのだろう。よくまともになったなと思うくらいだが、ああした経験をした人の「まとも」は結構信頼できる。立場上僕の患者だが、彼女も僕もそうした配慮は一切しない。なんと言う表現をすれば的を射るのかしらないが、ひょっとしたら実の父親には憎しみの感情しか持ったことがない、仮想現実の父親像を僕に求めているのだろうか。僕にとっては仮想娘と言うより元スケ番の大切な友人なのだが。