定義

 今日姉がFAXを送ってきた。日曜日に横浜から来岡し母を訪ねてくれたらしい。文面では、母が大広間で他の人と一緒に食事を摂っていたらしい。残念ながらいつものように会話は成立しなかったが、急に何かが起こるような感じはしなかったと書いていた。「どこも痛いところは無いみたいで、本当に有り難いです」とも書いていた。ここの箇所は、どこの家族でも同じ思いではないか。苦しんだり痛がったりするのを見るのは辛いが、そのどちらも母にはない。だから見舞いに行っても僕たちにストレスはない。元気な頃はひたすら子供のために働き、その後は孫のために働き、ほとんどの人生を家族のために尽くした。そして最期さえも子供達のためにただただ静かにしてくれているのか。  つい最近、僕は一人母に別れを告げ、心からの感謝を口に出した。これなら再び、再会を喜び合わなければならない。こんな幸せがあるだろうか、この歳になっても母親がいるとは。無償の愛と言うものを僕は定義できないが、母から貰ったものが恐らくそれだと思う。僕は母に何も要求されたことはない。恐らく5人の兄弟姉妹全てがそうだと思う。母はただ働き、ただ食事を作り、ただ洗濯をし、ただ掃除をしていたように思う。92歳まで2kmの道を歩いてきて薬局の雑用をし、また1人で帰っていった。その後は急速に痴呆が進み施設に僕が姥捨てした。  大正の最後の頃に生を受け、昭和の戦争で肉親を失い、戦後の貧しさを耐え抜いた世代が消えていく。消え行く人の数ほどの愛も消えていく。残されるのは、乾燥してとげとげしい殺伐とした景色。ものに溢れ精神が極端に退化した窒息した社会。喜び薄い仮面のような人の群れ。マンホールの中に吸い込まれる命。ありがとうも、有り難いもない。

この場を借りて・・・12月13日は人間ドックに行きます。当日は不在のため漢方相談は出来ません。御配慮ください。