教会のミサの時にうたう歌を典礼聖歌と言う。いつの時代に作られたのかわからないような歌なのに、オルガンの伴奏に全て乗るのが不思議なような気がするが、もし音楽が教会とともに発展してきたのなら分かる気もする。ただ無理やり現代楽器に合わせて歌うから、歌うのが難しいのが多い。その中でも現代の作曲家によって作られたものもある。そんな曲は結構耳に馴染んで気持ちよい。歌詞はさすがに教会だから心が洗われるものが多いが、メロディーまで今風だと馴染み易い。  沢山の歌の中で時々出合うべくして出合ったような歌がある。次の歌はメロディーも歌詞も好きで、何かにつけ思いだされて、ある瞬間の僕の行動にかなり影響する。    呼ばれていますいつも。  きこえていますかいつも。  はるかなとおーいこえだから  よい耳をよい耳を持たなければ。

 未熟な解釈で申し訳ないが、恐らく神様はいつも呼びかけてくださっている。だからその声が聞こえるようなよい耳を持ちなさいということだろう。神様の声が聞こえないとしたら、こちら側に非があるということだろう。  このことは日常生活の中で沢山経験する。毎日のように経験しているかもしれない。神様といわなくても多くの人がためになるよいことばを話す。それを素直に受け入れることができたら、僕達はどれだけよい方向に変わることが出来るだろうと思うが、多くの場合、自分にとって都合がよいか、心地よい言葉しか受け入れない。  僕の場合は、職業上逆の立場にも立つ。40年薬剤師をしているから、沢山の方たちと会ったし、今でも会っている。だから薬局ですむよなトラブルのほとんどは分かるし、薬で対処も出来る。そんな僕が親切で養生方法を助言しても、それこそ良い耳を持っていない人もいる。残念だが仕方がない。養生を治療に重ねることで解決せざるをえない複雑な疾患が増えている。良い耳だけではなく、よい口も、よい目も、良い耳も持ちたいものだ。