関係

 若い男性が処方箋を持って入ってきた。見たことがない顔だ。幼顔で高校生のように見えた。なにやら大きなかばんを肩から提げていたのでそう見えたのかもしれない。娘達に薬を作ってもらい僕が応対した。定石どおり飲み方などを話し始めたが、全然反応がなかった。愛想のない人間だなと思っていたら、おもむろに耳からイヤホーンを外した。そうか、僕の喋っていることは聞こえていなかったのだとその時点でわかった。若者がイヤホーンで何を聞いていたのかわからないが、英会話ではなさそうだ。音楽だったのだろうか。外部から語りかけて分からないようでは、危険を予知できることも出来まい。その無防備さは天性のものか幼児性なのか。  ただ薬だけ渡して済まそうと思ったが、さすがに目の前で困っている状態を見せられたら、助言の一つでもしてあげようと思った。同じ薬を飲むのでも明らかに養生が貢献するものがある。この若い男性は養生しだいだから、気は進まなかったがそれを伝えた。すると次第に聴く耳を持ってきて、帰りには礼を言って帰った。  処方箋だけを持ってくる人は、このように「薬をもらえればよい」人が多い。僕の薬局にこだわりがないはずなのに、それでも処方箋を持って来る人は待たなくてもよいというメリットを感じている人達だ。混雑などと言うことはありえない薬局だから、用をたすだけなら便利だ。それらの人にとっては薬局は、知識も情も交換されない合理性だけが支配している空間だ。彼らは僕の薬局にはふさわしくないが、処方箋は受けなければならないという法律があるから、それからは逃げられない。せめて人間関係だけでも構築できれば、少しは血が通うのだが。  漢方相談は正にその対極だ。喜怒哀楽全てが動員され、お互いが1つの目標に向かってそれぞれの立場で努力する。いわば併走するランナーのように。足も引きつり、息切れもし、必ずゴールのテープを一緒に切れるとは限らないが、それでもお互い頑張る。目の前にいる人物は「聞きたくもない人間」ではなく「聞き入る人間」なのだ。僕は40年後者の関係の中で働くことが出来た。