うつ病

 その方は結局一度も笑うことなく、漢方薬を持って帰った。僕の患者さんではなく、息子がきった処方箋を持ってやってきたのだが、ただ漢方薬を作って渡すだけでは意味がないので、少し話を聞かせてもらうことにした。息子が切った処方箋の内容が正しいかどうかを点検する意味もあるし、息子の患者だからよその医者にかかったより圧倒的に効く手伝いをしようと言う馬鹿な親心だ。息子は親のことなど何も考えていないのに、親馬鹿の僕は子供のことを必死で考える。そのギャップに唖然としながらも、嘗て僕が父親にしてきたことへのしっぺ返しだと諦めている。  話がそれたが、その人のうつ状態になった理由は今はやりのパワハラだ。とつとつと話してくれたところによると、上司の叱責振りが尋常ではないらしい。その挙句が感情を失い職場に足が向かなくなったらしい。僕の前では上司を罵倒すればいいのにと思うが、それさえしない。悪いのは自分なんだそうだ。心も体も傷つけられて、それでも反撃しない。僕にはありえない行動様式だが、多くの人が今この国では同じ状況でもがいているのだろう。毎日新聞で偶然目にしたのだが、パワハラを30%の人が経験しているらしい。  このようなケースは、おおむねパワハラをする方に問題を抱えている事が多い。そのことを言うとその人も気がついているみたいだった。家庭の不幸によるストレスを職場で晴らしているようだ。ただそうした指摘も、その方の心を解くことは出来なかった。  それから2週間経って、その方が2回目の処方箋を持ってやってきた。薬局の入り口で既に2週間の効果を感じることが出来た。全く表情が異なり優しい眼をしていた。そして経過を教えてくれるときも、はっきりと大きな声で理路整然と説明できた。何故心療内科に行く前に息子の病院を訪ねたのか知らないが、精神病薬を飲むこともなく改善して幸運だった。  さすがに改善してくると笑顔が出るようになった。これなら大丈夫だ。笑える人は大丈夫。素人の判断基準でなんら普遍性はないが、沢山の人を見てきたから大体分かる。  今はもう出て行ったから分からないが、仕事から帰るとよく酒を飲んでいたが、こうした人たちのお世話を1日中しているのだから、せめて酒くらい気兼ねなく飲ませてあげるべきだったのかと思ったりもする。息子も診察の時に僕と同じくらい喜んだだろうか、僕以上に喜んだだろうかと、自分の引退と関連付けて考えた。笑いを忘れた人が笑顔を取り戻す。それにかかわれるなんて、なんてすばらしいことだと思う。