物忘れ

 ある御夫婦が漢方相談にやって来た。見るからに恵まれた生活を送って来た人達と言うのがわかり、それが今も続いていることも分かる。相談しに来なければならない体調不良も、歳相応のもので現代医学では治りにくいと言うだけだ。総じて恵まれている人なのだろう。  その方が持参してくれていたお薬手帳を覗いているとドネペジルと言う薬の名前を見つけた。さっきまでの印象がその瞬間覆されるような想いだったが、ただそれを飲んでいる事が不自然だった。こんなに元気で、こんなに礼儀正しくて、頭もさえているのに、どうして痴呆症の薬を飲むのだろうと気になった。本人がこの薬の用途をしっかり聞いて理解していればいいが、医師や調剤薬局で説明を聞いていない可能性もある。だからどうしてこの薬を飲んでいるのか尋ねるのが気が引けた。ただし、あまりにも不自然だったので思い切って尋ねてみた。自ずと言葉は選んだが。「このドネペジルって薬は御主人どうして飲まれているの?何かご自分で歯がゆいことでもあるのですか?」と。するといつか医師に、最近物忘れがひどくなったと言ったらしいのだ。すると医師は「親切にも」この処方を出してくれたらしい。アルツハイマーのテストでもしたのかなと尋ねたら、そんなものはしていないらしい。「御主人、物忘れをするようになったと言われたけれど、物忘れしたことを忘れているの?」と尋ねると、「ちょっと考えれば思い出しますよ」と答えた。これで決まり。僕はどう見ても必要ないと思った。  ただし、悲しいかな、ここで僕がその薬をやめさせる権限など無い。処方した総合病院の医師に頼むことも出来ない。処方箋を僕のところに持ってきてくれているのなら勇気を出して言えるかもしれないが、全く無関係なのに何も言えない。考えた挙句、次回その病院にかかるときに「最近、頭がさえてきたような気がするから、あの物忘れの薬は必要ないと思うのですが?」と尋ねてもらうことにした。  ちなみにドネペジルの添付文書には以下のような文章がある。これから逸脱したら保険診療の対象外になる。

本剤は、アルツハイマー認知症と診断された患者にのみ使用すること。 (2) 本剤がアルツハイマー認知症の病態そのものの進行 を抑制するという成績は得られていない。 (3) アルツハイマー認知症以外の認知症性疾患において 本剤の有効性は確認されていない。

 このように決して物忘れの薬ではない。物忘れの薬だったら一番に飲ませなければならない人間がいる。アホノミクスが筆頭だ。その場その場で保身の言葉を連発し、相手を攻めることしか知らず、昔言った言葉など完全に忘却の彼方だ。と言うより、言っている瞬間から何もわかっていないのだろうが。  薬の添付文書に書いているようにアルツハイマーの病態の進行を抑制もせず、有効性も認められていないものがそもそも薬として許可されている事がおかしい。これもまた製薬会社に天下った役人達の手柄だろうか。  歳相応と言うより、随分と若く見える人に不必要な薬を飲ませて、誰が何を得るのだろう。こんな不思議なことが恐らく日本中に蔓延しているだろう。薬の世界だけではないはずだ。美しい日本、鬱苦しい日本。