「ここの草はよく伸びる」と聞いて、聞き返さない人はいないと思う。実際僕も数回聞きなおしたと思う。ただし都会の人には分からない、いやいや、そう言った人が京都から牛窓に移住してきた人だから、都会人ほど分かるのだろうか。  草はよく伸びるもの、それも憎たらしいほど伸びるもの、迷惑なほど伸びるものだと先入観にしっかりと収めていたが、その定位置を脅かせそうな言葉だった。まして言った人がそれなりの知性をうかがる人なのでなおさらだ。  京都のどのあたりに住んでいたのか分からないが、恐らくはずれではないはずだ。恒例のかの国の女性達を連れた京都旅行のヒントをもらったときにそう感じた。歌舞伎を見る南座?が近いとか言っていたから。  なんでも京都では1年に2度草を抜いていればよかったらしい。ところが牛窓で生活してみて、もう数日したら草が勢いよく生えているのだそうだ。これはよく分かる。1昨年、道路の対面に畑を作ってから、結局は草山にしてしまった経験があるから納得だ。3日といわず翌日には既に元の木阿弥状態だった印象がある。草の生命力を感じ、分けて欲しいくらいだった。それだけ牛窓の土地に力があるってことだし、自然ってことだが、逆に都会の土には命をはぐくむ力があまりないんだと驚いた。同じ土に見えても全然違うんだと思った。  この会話は、駐車場の一角に作った庭を褒めてくれたところから始まった。僕が作ったと勘違いしてくれていたから、駆け出しの庭師の作品だと教えた。何処の田舎も同じかもしれないが、「空き家、空き地対策としてこうした小規模の庭が牛窓の町に点在すると素敵でしょうね」とその女性が言った内容はずっと僕も心に秘めていたものだ。大きな箱ものは出来ないが、小さな庭なら作れる。同じような考えを他所からやって来た人も持っていることが嬉しかった。経済だけを追求していたらなんとなく満たされている時代は過ぎた。それについていけない人や、最初からその土俵が用意されていなかった人たちに、草花に囲まれ、太陽に見下ろされ、風の匂いをかぐことが出来る人生の腰掛を用意してあげたい。