芸当

 今まで感じたことはなかったが、先週津山で第九を聴いたばかりだから、その差が際立ったのかもしれない。  その差と言うのは器のことだ。街の規模が異なるから、オーケストラにしても合唱団にしても分母を無視して差を云々することは適切ではない。僕などそもそも差が分からないレベルだから聴かせて頂いて有り難いの一言に尽きる。  今日、僕は、奏でられる音が「柔らかい」と感じた。そんな印象を持ったのは初めてだ。僕の患者さんで岡山シンフォニーホールの会員になっているクラシックファンの方がいるが、その方が常々シンフォニーホールは音が全然違うと、自慢げに言っていた。なんら本人の手柄ではないが、なんとなくそのことが判ったような気がした。演奏者の実力や個性かもしれないが、僕も器のせいのような気がしたのだ。設計しつくされたホールだろうから当たり前といえば当たり前だが、その当たり前にやっと僕の耳が追いついたような気がした。第九の追っかけでも、積み重ねれば少しはわかってくるもんだと言うのが最近の僕のひそかな自慢だ。「クラシックは分からない」と言う、まるで安全地帯に逃げ込んでからの言葉がいらなくなるような気がする。もうそろそろ肩の力を抜いて「分かる」「好き」などの単語を使っていいのかもしれない。  演奏が終わって感激のあまり我慢できなかったから、いつものように大きな声を出したら、隣の席の夫婦がとても喜んだ。今終わった演奏に喜んでいるのかと思ったら、僕が大いに喜んでいることにも喜んでくれたみたいで「息子が2人、あそこで演奏しているんです」と種明かしをしてくれた。あそこと言われても困るが、「いい息子さん達をお持ちなんですね、ありがとうと伝えておいてください」とまるで期待されている通りに答えてあげた。僕が連れてきている、見るからに東洋人の女性達が気になったのか、英語で「どうでした?」と話しかけてきた。如何にも東洋人は日本語で「すばらしい」とか「感動しました」と答えていた。第九はクラシックの素人ファンにはうってつけだ。今までかなりのかの国の女性たちに聴いてもらったが、不評を買ったことがない。と言うよりかなりの高評価だ。年に一度の為に恐らく懸命に練習してくださっている人たちに感謝だ。いや本当はベートーベンに感謝なのだろう。  来年も元気で絶対聴きに来る。コンサートの後で決まってこみ上げる感情だ。200年前に作られた曲で、無数の人が鼓舞される。極められた秀作にしか出来ない芸当だ。