懺悔

 「お母さん、紅葉がきれいだから見に出よう」と言って施設から誘い出したのはいいけれど、実際には施設の背後にある山は所々にうす茶に変色した葉っぱがあるだけで、紅葉などとは程遠い。今年は暖かいせいか、言われるほど紅葉が進んでおらず、山はまだほとんど緑色だ。  それでも昨日は気温が高く戸外が気持ちよかったので、施設の横にある坂を車椅子で上ってみることにした。少しでも山に近づけば黄葉もどきでも楽しめるのではないかと思ったのだ。薄茶色の葉っぱでも母が認識できればいいと思ったのだが、息子の顔も名前も分からない人にそれは難しいだろう。見せて上げるだけの自己満足かもしれないが、僕にはそれ以上の孝行をする心も技量も無い。それで精一杯なのだ。  施設から坂道に出るところに一本だけそれこそ真っ赤に色づいた葉っぱを蓄えた木があった。モミジのように見えたが、定かではない。急な斜面に立っている数本の中の一本だ。それが正面に見えたところで母が一言「きれいじゃなあ」と言った。確かに背景はまだまだ緑なのに、一本だけ鮮やかに燃えている。何の理由でそうなのかわからないが、恐らくそれを見た人の多くは母と同じ感慨を味わうとだろう。  母の的を射た言葉に喜ぶが、母はその色彩についての感想を述べたのだろう。周りの風景に全く同化せず凛として立っている姿に母が感銘を受けたとは思えない。ただ僕はその時何故か、その木の孤高と言うべき姿を美しいと思ったのだ。母と同じ単語を共有できたことはうれしいが、それ以上の会話は出来ない。  思えば母がまだしっかりしていたときに、こんなに近くで時間をともにしたことなど無い。何かの用事を伝えるだけで、心を通わせたことなど無い。他の家族ともそうだ。一番大切で多くの価値観と行動を共有すべき存在と、むしろ淡白な関係を築いてしまったような気がする。家業に振り回されていた大和家代々の特徴か、或いは世間一般の姿か分からない。僕は他の家族の本当の姿を見た事が無いから。  僕が母の車椅子を押すのは懺悔の何物でもない。