屈託

 ウォーキング中は数学の問題は解けないが、言葉は多く浮かぶ。この発見をしたのは僕だが、イグノーベル賞並みの発見だと思う。ウォーキングをもう10年以上続けているから次第にそれが正しいということに自信を持っているが、ひとつだけ懸念材料がある。それは、僕は歩いていなくても数学が解けないと言うことだ。だからそこのところを証明することがどうしても出来ない。  昨日歩いていて浮かんだ言葉がある。それは屈託と言う言葉だ。屈託の無いとはよく使われる言葉だが、僕は正にその屈託の無い笑顔に慰められ救われているのだと気が付いたのだ。10年かかってやっと説明が付く、それらしい言葉に巡り会えた。  今僕が親しくしているかの国の若者は4箇所にいる。それぞれ個性はあるが、概して言える事は、彼女達はとても明るくて正に接し方に全く屈託が無いのだ。それはまるで幼い子供か、人間のように育てられた犬みたいだ。明らかに違うのが、人と人との距離感だ。近い、かなり近い。日本人なら後ずさりするような距離感で多くのことが回っている。異国に来たからの連帯感ではなく、自然に出る行為だと言うことは観察していればすぐに分かる。色々な機関が助けてくれるのではなく、まだ人と人が助け合わなければならない所に暮らす人達の必然なのだろうか。  日本人の距離感で60年以上生きてきたから、当初その距離感に馴染めなかったが、今は違う。介在するものが心だけ、或いはそれに近い状態で接する精神の自由たるや、何者にも換えがたい。僕は彼女達に、ひたむきに働いている姿を見せて貰い応援する。帽子に作業服。そんな姿が好きだ。寮にお邪魔しているときに集団で帰って来た子達が「オトウサン タダイマ」と大きな声で挨拶をしてくれる。それだけで僕は幸せな気分になる。歩きながら、僕はそうした一つ一つの出来事を知らず知らずのうちに反芻しているのかも知れない。だから「屈託の無い」と言う言葉が突如沸いてきたのだ。10年分の思い出がまるでブラックホールのようにその1つの言葉に吸い込まれていったのだ。