岡山大学の処方箋が出回り始めたのが、岡山県の処方箋時代の幕開けだろう。当時処方箋を調剤したことがなかった薬局がほとんどだったから、どの薬局もうろたえた。うろたえまくった僕も二人のパート薬剤師を雇った。家庭にいったん入り、子育てが順調に行きだしたから又現場に復帰したい女性薬剤師だ。また雑務をこなしてくれる女性も欲しかった。そんな頃患者としてやってきた若い女性が、とても印象がよかったので、それが治癒した頃働きに来ないかと誘ってみた。落ち込んだが故の症状だったが、そこから脱出したときの彼女は、とても好印象だった。照れ笑いを浮かべ、シャイではあったが、人に好感は持たれると思った。僕が人をお願いするときの一番重要なポイントをその女性は備えていた。もっとも、それだからこそ何かを客に売りつけると言うことは一切出来ず、働いていた何年間で一つの薬も推奨したことはないだろう。ただ、それは2人の薬剤師も同じことで、2人とも数年間で誰かの病気を治したこともなければ、健康のために薬を勧めた事もない。要は僕の薬局では誰も薬の推奨をしなくていいって事だ。何人スタッフがいたとしても、結局は僕が応対し薬を決めるから、薬剤師は薬を作ってくれればよかったし、スタッフは僕の事務作業を助けてくれればよかった。  彼女が結婚して辞めてから10数年が経つと思うが、今日思いがけなく訪ねて来てくれた。「分かりますか?」と言いながら入ってきてくれたので余計分かった。当時も下の名前で読んでいたので「〇〇ちゃん?」と反射的に名前が出た。小学生2人のお母さんになっていて、筋骨たくましく見えた。聞けばそういった種類の職業についていて、体つきがとてもがっちりしていた。嘗てと同じようにシャイながら笑顔を絶やさずに30分くらい話をした。えてして、嘗て働いていた所とはいい関係は作りにくいものだが、この女性は、わざわざ訪ねてくれたことで、又嘗てと同じように接することが出来たことで、まずまずの評価をしてくれていたのだと思った。十分なことをして上げれたのかと、折に触れて後悔とともに思い出すが、こうして訪ねてくれるからには珍しく及第点だったのかと安心した。  思えばこうした人たちに、転換点では大いに助けられた。分業が始まったとき、僕の漢方薬を当時働いていた薬剤師がインターネットに載せて多くの県外の人達に飲んでいただくようになったとき、市民病院の牛窓分院が処方箋を発行するからそれを受けてくれと頼んできたときだ。3回とも助けられたメンバーは異なるが、家族だけではとてもこなせなかった。多くの助けを借りて何とか要望に応えることができた。手伝ってもらった分のお返しが出来ただろうかと折に触れて思い出すが、一番悔やまれるのは、誰もがスキルアップしていないと言うことだ。昔ながらの薬局は、来る人を治さなければならない。そのためには漢方の知識と、処方に結びつける情報を如何に患者さんから引き出すかと言うテクニックが必要だ。これができる人を今だ見たことがない。長い間勉強している人でも、この技術は身についていない。はったりをかます似非相談薬局の口達者とは眞逆だが、真剣に人様を助けようと思うことが出来れば問診術は身に着く。教科書には出ていない、自分で身につけなければならない技術だ。  よほど良い縁があって、そうした技術を伝えられる人が来てくれれば別だが、個性と言う名である時を持って一瞬にして消え去るものなのだろう。そうしてみると、残すことが出来るものなど何もなくて、残す価値があるものも何もなくて、庶民などと言うものはやがて野の水に帰るのだろう。