先行

 製薬会社のあるセールスが、対面に腰をかけ、いつものように新しい情報をくれようとするのだが、やたら片一方の目に手をやる。瞼は腫れて赤くなり、痛々しい。涙もしばしば出るみたいでやたらハンカチで拭う。違和感を持ってしばし眺めていたが、本人が理由を打ち明けてくれた。  熊本地震があって間もなく現地にボランティアへ行ったらしい。現地は僕らが想像している以上に悲惨らしくて、彼曰く「ニュースなどの映像で流してはいけない区画がある」らしいのだ。彼が僕に嘘を言うのはかなり勇気がいることで(薬のセールスが嘘をついたりすると取引はすぐに中止になる)恐らく見聞きしたとおりを僕に教えてくれたのだろう。こちら側はニュースで流してもいいが、あちら側は止めてくださいと言われるほどの、あまりにも悲惨な光景が広がっていたのだそうだ。「あんなものではないです」と何度も繰り返したからよほど悲惨な光景だったのだろう。  そんなまだ混乱しているときにある感染症にかかり、数日後家に帰ってから40度の熱と戦ったらしい。何日後かにやっと熱は引いたけれど、それから片一方の目が、涙が止まらなかったり痛かったり、散々ならしいのだ。当然眼科には通っているが、思うように治ってくれない。最初にかかった医者からは免疫が落ちていると言われたらしい。完治しないのに、県外を車で営業に回るのは大変だろう。恐らく彼のように現地で体調を崩す人も多いのではないか。  ボランティアに慣れているような口ぶりだったが、その経験が今回は生かされなかったくらい現場は過酷だったのだろう。「元気でないといけませんね」と反省とも後悔とも聞こえるような言葉を口から出していたが、気持ち先行の世代に差し掛かったことを彼も気がついたのかもしれない。それでも彼は立派だ、現場に立っている。一回りくらいの歳の差の僕だが、僕が彼の年の頃には、既に気持ち潜行状態だった。