殺伐

 僕が牛窓に帰った頃は、牛飼いは沢山いた。どうして牛窓で乳牛を飼う家があんなに多かったのか知らないが、結構な戸数があったと思う。牛を飼っている人が買い物に来ると独特の臭いがして、職業を聞かなくても分かった。僕はその臭いは彼らの勲章だから全く気にならなかったが、自分の臭いを気にしている彼らのほうが嫌そうだった。  市民病院の分院が廃止され、老人達は隣町の病院に行かざるを得なくて、不便を強いられている。無能な為政者は、弱者に犠牲を強いることしか発想できない。国も地方も同じだ。老人達は不自由な体で懸命に通院している。  85歳になるこの女性もその中の1人だ。痛む足でバス停まで歩き、1時間に一本のバスに乗り病院に行く。帰りはそのバス停ではなく、2つ乗り越して僕の薬局の前のバス停で降りる。調剤がすんだら、息子さんに電話をして、迎えに来るのを待つ。薬局の中でいつ来るかわからない息子さんを待っている姿が痛々しい。邪魔にならないように静かに待つ。どなたに対してもすることだから特別ではないのだが、美味しいお菓子とお茶を出してなるべく気兼ねなく薬局の中におれるように演出する。用事が済んでも留まり続ける事に気兼ねしているのは痛いほど伝わってくるので、なるべく自然な形でいてもらえるようにスタッフにお願いしている。  若いときにはどのくらいの身長の女性か分からないくらい腰は曲がっていて、やせて筋肉も落ち、歩くのも不自由、腰掛けて待つのも辛そうだ。なかなか息子さんが迎えに来なかったので、少し雑談をした。  薬局で薬を受け取って帰り、食事を済ましたら牛舎に出るそうだ。そこでどんな仕事を担当しているのか分からないが「助けてやらにゃあいけん」と言っている。牛飼いの仕事内容がどんなものか想像がつかないから、腰が二重で、体重が30数kgの老婆に出来る仕事があるのかどうか分からないが、助けなければと言うくらいだから担当している仕事があるのだろう。  冷蔵庫を開けて、牛乳パックから直接冷えた牛乳を喉に流し込む。暑い日に、その爽快さは格別だ。ただその爽快さを与えてくれる陰には、こうした老婆の存在が沢山ある。決してスマートな人たちの集団で僕達の命や生活が保証ざれているのではない。土になり、潮になり、風になった人たちの懸命の営みで僕らは養われている。そのことが想像できないから今の世は殺伐としているのだ。