朝の8時から9時まではトンイが待っているから、テレビの前に陣取る。おかげで本来ならその貴重な時間に片付けられることのしわ寄せを、それより前の時間帯が引き受けることになる。  下手をすると、早朝5時前から始動するが、十分明るいのも手伝って得した気分だ。新聞を読み、ウォーキングをし、食事をとったらすぐ薬局に下りて、メールを点検して1日の大まかな仕事の流れを決める。それがすむと再び外に出て、娘夫婦が本職に造ってもらった庭の草むしりをする。つい最近抜いたはずなのに、3日もあれば草は復活する。きりがないけれど、きりがないから毎日草をむしる。娘夫婦は仕事で手が空いたときにしゃがみ込んで懸命に草を抜いているが、僕は朝7時から8時までを割り振っている。人海戦術だが勝負は永遠につかない。  しゃがみ込んで毎日至近距離で草を見下ろしていると、草と言う一言で片付けられないくらいの種類の多さに気がついた。そして一つ一つがかなり個性を持っていることにも気がついた。表面だけ派手で全く地に足がついていないのや、葉っぱは蜘蛛の足みたいに醜いのに小さな可憐な花を咲かせるものや、茎のいたるところから根を出し、土の表面に芝生のようにくっついているものや、針金のような葉っぱを一杯空にむけて伸ばしているものなど、なかなか面白い。遠くから眺めると「草」でも、色々な種類の命が競い合い棲み分け合って生きていることに気がつく。   ところがそうした懸命の命を見たくせに、僕は草を抜く作業に没頭する。ゴム手袋を両の手にはき、効率よく草を抜く。どうもきれいな花を咲かせないから草と呼ばれているような気がするのだが、もしそれが正解なら、僕は命を選別していることになる。きれいときれいでないの単純な線引きで。実はこのところ、草を抜きながら後ろめたさに襲われることがある。人間社会なら決してしてはいけないことだ。美しくないものを間引いているようなものだから。  たかが草のはずなのに、毎日至近距離から眺めていると情が移る。感性は決して若者の特権ではない。