遠回り

 学校保健委員会でも日常の薬局業務の中でも、子供達のゲームについてよく尋ねられる。具体的には目にしたことがないのだが、テレビのコマーシャルにやたら出てくるから今では想像はつく。その昔全くゲームを見たことが無かったときに想像していた内容は、現在毎日のようにテレビコマーシャルで見るものと全く違う。一言で言うと「こんなにつまらないことをしているのか」だ。ただ僕にはそのことを批判する権利は全く無いから決して口には出さない。  僕の青春時代はパチンコ一色だった。浪人時代から大学を卒業するまでの6年間、多くの時間をそれに費やした。パチンコはゲームよりももっと単純で、お金も必要だ。時間と金と健康を犠牲にしないとパチンコなど出来ない。僕は6年間その全てを犠牲にした。授業は受けずに繁華街に行き、アルバイトで稼いだなけなしのお金をパチンコ屋さんに貢いだ。タバコの煙が充満する中で1日数時間を過ごしたから、副流煙の中で過ごしていたことになる。もっともその副流煙を作っているのもまた自分なのだから性質はかなり悪い。  パチンコに熱中した理由は単純明快だ。浪人時代は受験勉強から逃げるため。大学に入ってからは、自分が選択した大学が間違っていたことに5月には気がついたからだ。と言うよりそもそも高校生の時に、将来自分がやりたいことなど全く考えられなかった。何をしたいかまるで考えたこともなかったのだ。ただ試験でよい点をとるなどと、恐ろしく無味乾燥の当座の目標で生きていただけなのだ。自分の個性に気がつき、それを将来の仕事にしようなどと考えなければならないことさえ気がつかなかった。今となっては痛恨の極みだ。多少の躓きはあっても、偶然普通の道に再合流できて救われたが、危ないところだった。  僕がパチンコから足を洗うことが出来たのは、牛窓にパチンコ屋が無いと言う単純な理由だ。もし牛窓にあれば仕事が終わった後に、ずるずると通い続けていたと思う。近くにないのだからどうしようもない。もし近くにあったらそれではいったいどうしているだろう。恐らく僕は通っていると思う。罪悪感を感じながらもあのギャンブル依存症からは逃れられなかっただろう。今頃は、家族に逃げられ、家業を潰し、命も無かったかもしれない。  ただスマホによるゲームは、僕のように「近所に無い」と言う脱出の決定打は無い。電波に乗ってやってくるのだから何処でもいつでもどっぷりつかることが出来る。そこが圧倒的に抜け出すチャンスが少ない理由だ。何かから逃げている状況で、忌まわしいものをより遠くに追いやってくれるものがあればそれに没頭するだろう。よほど興味を惹くほかのものがない限り。  僕らは「よほど興味を惹くもの」を持ったとき初めてゲームと言う合法的な麻薬から逃れたり、距離を取ることが出来る。その合法的な麻薬に勝てるものはいくつかあるのだと思うが、誰にも共通して言えることは「将来の夢」だろう。具体的な夢をもし描くことが出来たら、僕はゲームと少なくとも共存できるのではないかと思っている。決別とまで言わなくても、適度な距離を保つことは出来る。  子供は圧倒的に持っている知識と実体験が少ない。それをカバーするのが大人の役割だろう。受験勉強の段取りを整えるのは商業主義のおかげで簡単だが、生きた情報を与えるのは簡単ではない。多くを見、多くを感じさせてあげる努力こそがひょっとしたら「親の安心」にも一番効果的なのかもしれない。遠回りがだんだんしづらい世の中になってきているが、この遠回りはかなり重要だと思う。ただこの遠回りをもっとも苦手としている性格の人には、わが子の敵である憎きゲーム会社の責任者を打ち首獄門の末、市中引き回しにすることを勧める。