奇遇

 「変わったなあ、変わったなあ」と腕をつかまれ肩を抱かれ何度も言われた。そんなに長いこと会わなかったのかと思ったが、恐らく相手もかなり変わっているのだろう、僕にはまるで初対面のごとく映った。「忘れてしまったの!区長をしていたKですよ。奥さんはHちゃんじゃなかった?」  この日曜日、数日後に帰国するかの国の女性に頼まれて妻と3人で施設の母を見舞った。この女性は何度も母の見舞いに同行し本当に優しく接してくれた。国に残した祖母と恐らく重ね合わせて母を見てくれていたのだと思う。かの国は家族の関係がまだまだ濃密だから、それはそれは優しさに溢れた光景を何度も見せられ感謝の気持ちでいっぱいだ。最後にもう一度会って、何も理解できない母だが帰国の挨拶をしたかったのだ。2時間近くずっと母の手を握ってくれていた。  太陽は覗かなかったが運よく気温が高かったので、満開を過ぎているがまだまだ十分花びらを蓄えている桜を見に運動場に母を連れ出した。母は僕らの意図を理解してくれているかどうかわからないが、桜の木の下で心地よい時間を過ごした。  そこへ1人の老人が杖をつきながら近づいてきて、声を掛けてきた。妻が対応していたが、地元上山坂の人だと言うこと、年齢が95歳と言うことだけ分かったのだが、そこから土地勘のない妻は対応に困っていた。その上老人の耳がほとんど聞こえないために、会話が完全に一方通行だった。ただ老人の話の内容に、僕はかなりついていけた。僕は幼い時に母の里であるこの土地に預けられていたし、大学に入る前までは長期休暇は必ずこの土地で過ごしていたから。そこで大声にも自信がある僕が相手を代わることにした。  95歳と言うことは、ひょっとしたら母と同じ年齢かもしれない。同じ上山坂出身、年齢がほぼ同じとなると若干興味がわいてきた。「奇遇ですね!」なんてことになるとちょっとしたドラマだ。僕はグランドの向こうまで聞こえるのではないかと言うくらいの大声で話を始めた。そこで母の里が同じ上山坂出身と言うことを告げ、母の出がI家であることを伝えた。そのI家を説明するために、母の父を持ち出すべきか、今の世帯主を持ち出すべきか迷った挙句、現在の世帯主の僕の義理のいとこの名前を挙げた。すると老人はすぐに分かったみたいで「そうですか、Yちゃんか、Yちゃんか、久しぶりですな。覚えてる?私はKです。区長をしていたKです」ととても再会を喜んでくれた。そしてその後に連発されたのが「変わったなあ!」だったのだ。  それはそうだろう。その変わりようは老人の想像以上だったに違いない。何しろ僕は全くの別人なのだから。Yは僕のいとこのだんなだから僕と似るはずもない。いくら手を握られ、肩を抱かれても懐かしさを共有できない。老人には残酷かもしれないが、僕がYではないことを告げ、母のことを説明した。でも「奇遇ですね」は実際に僕の口からこの後出たのだ。  老人の妻が母の大の親友だったことが分かった。よく奥さんのところに母が遊びに行っていたらしい。当然老人は何度も母とは会っている。だから、母が牛窓にお嫁に来たことも知っていた。およそ70年以上前の出来事だ。それこそ変わったなあとでも言うべきだろうが、老人は満面の笑みを浮かべて母に昔話を始めた。母は、薬局を何十年も手伝ってきたので、痴呆になっても絶妙の頷きや返答をすることが出来る。ほとんど耳の聞こえない老人は、母の的確な頷きに誘われ、おしゃべりが続いた。少し離れて見ていたら話が弾んでいるように見えるだろう。なんともいえぬ滑稽さに笑いをこらえながら僕ら3人は2人を見守った。  帰る車中で「キョウハ シアワセダッタ」とかの国の女性が言ってくれた。幸せなのは僕のほうだ。誰がこんなに痴呆の老人を大切にしてくれるだろう。朝10時からの玉野教会でのミサで、ベトナム人神父様に祝福をしていただき、その後深山公園で桜とつつじを楽しみ、母を見舞い、夕方には岡山教会で帰国する他の工場で働く青年に別れを告げ、その後夕食をともにした。全てその女性がいなければ、ありえなかった出来事だ。里山の生い茂った笹に囲まれた小さな池に太陽の光が届き水面が光る。何故かそんな光景が頭に浮かんだ。きっとその池が僕で光がかの国の女性なのだろう。