昔なら、いつもののどかな光景なのだが、ここ何年かはほとんど見ることがなかった。ところが最近は徐々に復活して、僕の気持ちを和ませてくれる。  漢方薬の勉強会が終わったのが午後の4時半。それからすぐに岡山市を後にしたのだが、牛窓岡山市の境辺りに帰ってきたのが5時過ぎだ。そのあたりは旭米と言うおいしい米が採れる田園地帯だ。稲刈りも終わって、切り株がどの畑にも整然と列を成している。道路の両側に広がるそんな景色のあちこちで白い煙が上がる。帰るすがら10箇所ではきかなかったと思う。風がなかったので白煙は空を目指して上るのが多かった。そのせいであの大好きな草が燃える匂いは車まで届かなかったが、幾箇所から昇る大小の煙を見て、幼い頃母の実家に預けられ、農家の子のように育った記憶が遡った。収穫の季節の大人たちの達成感に満ちた表情が思い出された。  僕はよく知らない。誰もが詳しくは知らないのかもしれないが、いつからか野焼きが禁止されたようなことを聞いた。そのせいで僕もしなくなったし、近所の焚き火大好き爺さんもしなくなった。ただ、山の上から頻繁に煙が立ち込めるのを見る機会があったから、継続して野焼きをやっている人はいた。ただそれ以外には本当に見なかった。ところが最近あちこちで散発的に野焼きをする人を見かけるようになった。天高く上ったり、地を這ったりと、嘗ての光景が再現され始めた。そして今日だ。ついに解禁かと言う位、煙の競演が続いた。  嘗てどうして禁止されたか、そしてどのように周知されたのか記憶が無い。集めた草を焼くくらいまさか二酸化炭素の削減を狙ってのことではないだろうと思った記憶はあるが、正解を知らない。あの原発の1秒間に何十トン?と言う熱水を海に垂れ流すのに比べれば、ほとんど意味を成さないのを知っているから、もし二酸化炭素排出規制のためなら意識的に決まりを破ってやろうと漠然と思っていた。いかにも国が環境に気を使っているかというパフォーマンスなら、受け入れがたいといつも思っていた。一抱えほどの草を燃やして何かの違反になるのなら、放射能を世界中にばら撒いて何の違反に問われないのは許せない。人を1人殺せば殺人犯、何百人戦争で殺せば英雄と皮肉ったチャプリンの指摘と一致する。  今になってなし崩し的に野焼きが復活した理由を知らない。自由に目覚めたのか、権利に目覚めたのか、胡散臭さに気がついたのか知らないが、草の燃えるあの田舎の匂いが郷愁を誘ってくれる。いい秋が深まっている。

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