水前寺清子

 水前寺清子の唄に「ぼろは着てても心は錦」と言うくだりがある。独特のうなり節で一世を風靡して、そこのところだけは覚えていて今でも歌える。  昼食は、若夫婦、次に姪、最後に僕が摂る様になぜか固定してしまったから、僕の昼食時間は2時を過ぎる。40年来の癖で、10分で食べて又仕事にかかるのだが、この2週間は違う。例の「仁」の再々放送に夢中で、食事が終わっても階下に降りないことにしている。運がよければ最後まで見ることが出来るが、たいていは途中で呼ばれる。後ろ髪を惹かれまくりで降りて行き、何もなかったように接客するのだが、結構未練はある。  今日は運が悪く、仁を見ながら食事を始めたのだが、3分後くらいに呼ばれてしまった。漢方薬の相談の患者さんが来たので僕が担当だが、口の中にまだあるものを犬のように飲み込み、白衣を急いで着て階下に急いだ。遠くから来てくれる青年だったが、彼の苦痛の表情を見ればスイッチが一瞬にして入る。あっという間に僕自身の戦闘モードに入る。経過の説明を受けてから煎じ薬を作るのだが、今日は勉強に来ていた薬剤師に手伝ってもらうことにした。煎じ薬は結構粉が舞うので、薬剤師の職業病である鼻炎や喘息を防ぐためにポケットからマスクを取り出そうとした。でもいつものポケットに入っているはずのマスクが取れない。取れないというよりマスクが、いや、ポケット自体が無い。アレッと思って着ている白衣を見てみると、裏にして着ていた。昼食のときに慌てて脱いだから裏返しになっていたのだろうがそのまま着て階段を下りてきたのだ。漢方の相談者はもとより、病院の処方箋をもって来ている人もいたから挨拶もしたのだが、恐らく2人は僕の姿に気がついたと思う。相談者など数十センチの距離で10分近く対峙しているのだから必ず分かる。深刻なトラブルなのに、けったいな格好で申し訳ないなと思う。でも寡黙な彼だからそれを話題にすることは無いだろう。ただ、調剤室の薬剤師と姪にはすごく受けた。薬剤師など調剤を間違わないのかと思うくらい笑っていた。職場が明るくなってよかったが、患者さんの信頼は明らかに失っただろう。でも僕はそんなことは気にしない。効けばいいが僕の薬局の信条だから。こぶしを思いっきり利かせて歌った。「裏は着てても心は錦」