帰国

 来週、3人が3年間のお勤めを果たして帰国する。その交代要員として、また3人がやってくる。3人が関空に降り立った飛行機で、3人が帰国する。もうこの数年繰り返されている行事だ。多いときには春と秋に行われる。  僕も幾組かの帰る人を見送り、幾組かの希望にあふれ来日した人を迎えた。ただ、この見送ることに今だ慣れない。深夜寮から、会社が用意したバスに乗り込んで関空まで出発するのだが、それを見送ったことはない。時間が遅いことと、部外者であることと、余計悲しくなるからだ。全ての帰国組は、夕方そろって僕の薬局に最後の挨拶にやってくる。どのくらい親しく過ごしたかによって、別れの悲しみの度合いは違うが、何回経験しても慣れることはない。  あの人たちは、国に帰ればかなりの財産になるだけのお金を稼いで凱旋するのだ。家族や友人が首を長くして待っているのだ。日本で得た技術や言葉の能力でいい職場が見つかるのだ・・等、別れの辛さを薄めてくれる理屈を並べてみるが、やはり涙なしの別れはかなりの難易度だ。その場では懸命にこらえることは出来るが、無防備にふと青空を見上げたり、ふと星を眺めたりしていると、今でも数日後に迫ってきた別れを考え涙ぐんだりする。  かの国の青年達と知り合うことがなければ、僕はどれだけ平坦な、それも下り坂の道を淡々と歩んでいただろうと思う。多くを語ることもなかっただろうし、遠い道を歩くこともなかった。花を愛でることもなかったし、山を登ることもなかった。大切にされたが、大切にもした。与えることもしたが、与えられることのほうが多かった。いつか又会える様な気がするが、僕には時間があまりないことも分かる。若さが溢れんばかり身の回りにあったが、力まずに暮らせる老いもいいものだと思うこともあった。どうにでもなることの価値のなさと、どうにもならないことの価値の大きさに気づかされる日々だった。