区分

 10年前くらいにカトリックの洗礼を受けたが、それ以前から寝る前には簡単にお祈りをする習慣はついていた。妻の影響だと思うが、それは今でも続いていてもうそれ無しで寝ることは恐怖だ。人知を超える災難を回避できるのは、いわゆる神頼みしかない。正しいお祈りとは思えないが、人が神に一番望むところでもある。  母についても毎晩お祈りする。ただその祈りの言葉が日替わり定食になりつつある。ただメニューは二つしかなく、その二つがアットランダムに交代しているだけだ。  一つは「母を長生きさせてください」もう一つは「母に安らかな死をおあたえください」だ。この二つがその日その日の母の容態によって交代する。長生きを祝福できる体調の日と、生きていることに何の意味があるのだろうと思う日がある。ピントは外れていても僕達と意思疎通できる時には長生きを望むが、寝たままでうつろな目をしている時には、もうこれ以上生きている意味を感じないだろうから、苦しむことなく安らかに眠るように亡くなってくれる事だけを祈る。  今日はベットに横たわっていたが、眠っている顔は笑顔だった。笑いながら眠っているようだった。血色もよく、看護師さんから明日から食事を摂ってもらいますと言われた。点滴をしていたらしいが、点滴にこれだけ回復させる力はない。やはり母の生命力だろうか。ただ一つ言えることは、恐らく母は苦しむことなく最期を迎えることが出来るだろうってことだ。元気で長生きをした人のそれは特権だ。体中が同時に機能を失っていくから、正に眠るようにと言うことだ。今日も母にベッドサイドで何回か叫んでみたが、目を開けることはなかった。ところが娘夫婦が来てから急に目を開けた。そして会話も始めた。 帰るときに又来ると挨拶したら、布団をはねのけて上半身を起こそうとした。さっきまで寝たきりだったのに、昭和の習慣が甦ったのだ。そのけなげな姿を見て、僕の日替わり定食が間違っている事が分かった。長生きをして、安らかな死を与えられる、二つを区分など出来ないのだ。どっちも与えてくださいと今日から祈る。