1分か2分の間、僕は子供を亡くした親だった。  受話器をとると、聞こえやすい大きな声で「ハロー」と相手が言った。時々こういう輩がいて、実際には遠い関係なのに、近いことを演じなければ接触できない時に良く使う常套手段だ。だから僕は当然日本語で挨拶をし、電話の向こうの声の主を探し始めた。すると向こうが話を始めたのだが、これがすべて英語なのだ。照れ隠しかいたずらかと考えながら聞いていたら、突然息子の名前を言われた。そしてやっと聞き取れたのがフィリピンの空港から電話をしてくれていること、マニラとフィジーと言う地名だ。沢山向こうはしゃべったが結局僕が分かったのはこの3つだけだ。ああ、それとファーストネームを聞かれたから、大和と名乗った。  まさに台風がやってきているときにフィリピンに留まっていることは知っていたから、何も起こらなければいいなと毎日思っていた。そのタイミングでこんな電話をもらったものから、僕はすぐに飛行機が落ちたと理解した。「どうしたんだ」とは英語で言えるが、その答えを理解することが出来なかった。血の気が引いて行くのがわかった。僕の英語力では9割9部伝わらないと思ったので、妻を呼んで電話を代わってもらった。すると妻は結構冷静に話している。その内容から、フィジーからマニラに向かう飛行機が飛ばなくなる可能性があるから、一つ前の飛行機に乗ってほしいと言う連絡を取ってくれということのようだった。海外にいる人間に電話をしたことがないのでそんなことが出来るものかと思ったが、みんなで手配して調べたら連絡方法だけ分かった。そしてその後実際に携帯電話に連絡をし続けたが留守電ばかりだった。でもテレビなどで事故の放送がないので、墜落の心配はなくなった。  不幸は突然やってくる。あまりの衝撃に心が一瞬にして壊れそうになったが、でもどこかでそんなことはありえないと否定する気持ちも芽生えていた。人が誕生してから、数え切れない数の親たちが、子供を失う不幸を体験しているだろうが、その瞬間に、絶望と間髪をいれず奇跡を信じる気持ちがわいてくることも体験した。  自分が、または子供がいくつになっても親心と言うものは変わらない。ただそのせいでつらいことが多い。もうそろそろ親をやめて解放されたいなと思った。