最近では、寝る前から翌朝の草抜きのことが気になりだした。しかし、それはストレスではなく楽しい朝の一時としての積極的な意味を持つ。まず駐車場の中の小さな畑だが、綺麗になること。そして腰痛と紙一重だが、普段とらない姿勢や、使わない筋肉を動かすことで、筋肉が落ちるのを少しでも防げるのではないかという淡い期待もある。筋肉の方は未だ効果は見えないが、畑が見た感じ綺麗になるのはもう結果を出しつつある。毎日抱えるほど草を抜いているから、結構綺麗になった。  毎日の作業の中で気がついた。大したことではないが、何かを示唆しているようで、若干の後ろめたさも覚えている。その結果草抜きを止めようとはさすがに思わないが、草を何かに置き換えたときに果たして自分が許せれるだろうかと自問してみる。  花を隠すくらいの勢いの草を僕が抜く基準に最近気がついたのだ。それは花だ。今咲いているものは勿論、咲こうとしているもの、咲いてしまったもの、ひょっとしたらいつか咲くのではと予想されるもの。それら以外が「草」なのだ。そして抜かれる運命にある。要は花が咲いていれば草ではなく、抜いてはいけないのだ。逆に、花さえ咲いていれば、それが実際には草であっても抜かれない。卑屈な言い方をすれば花があれば全て許されるのだ。同じ植物でこんなことが許されるのかとふと考えてしまう。恐らくそれは人間に例えた時だろう。  華がある人、美しい人、そうした人は抜かなくて、不美人な人は抜いてしまう。こうした文章が果たして許されるだろうか。正に同じ事をやっているのではと空恐ろしくなった。人を見かけだけで判断しているのではないかと思ったのだ。名前は難しくて忘れたが、割烹着で実験をしているのが売りだった「オモッタカ」さん、いや「チチカタ、ハハカタ」さんも、あの愛らしい表情の前では糾弾を躊躇われる。僕にとっては抜かれない草なのだ。 どれも命を平等に与えられているのに、自分にとって不都合と思われれば抹殺する。今まで草抜きなど経験がないから、こんなことを考えるなんて思いもしなかったが、この歳になると草にまで命が宿っているように思えてくる。自分の花が枯れてしまっていることにも気がつかないで。