恐怖

 岡山県に住んでいたら幸いにも滅多に地震に遭遇しないから、それに対しての知識はあまりない。記憶にある地震の回数は、片手があれば数えることが出来るのではないか。だから一昨日の地震は、岡山県で震度4だったのだが、それなりに緊張した。揺れが収まるとテレビを点けて、震源地がどこか確かめたが、愛媛県辺りだというのには驚いた。僕はどこか遠くで巨大地震があったのではないかと思ったが、巨大でなくて助かった。ただあの震源地の近くには伊方原発があるからぞっとした。もしあそこがやられれば東にある牛窓なんか住むことは出来ないだろうし、関西圏も総崩れだ。巨大な無人地帯が出来る。  昨日一人、今日一人、漢方薬の注文電話の時にお見舞いを言われた。一人は東北の女性で、地震があった日に漢方薬の注文をしていいのかどうか躊躇ったと言っていた。大変でしょう、大変でしょうと、とても気を使ってくれたが、まったく大変ではなく、いつもと変わらない気持ちで仕事を黙々とこなしていた。東北の大地震を経験したその女性には、とても他人事には思えなかったのだろう。自分の経験がフラッシュバックしたのかどうか分からないが、その気の使いようは、体験者でないと出来ないレベルで、とても嬉しかった。  もう一人の女性は関東に住んでいるのだが、地震の本場と言ってもいいような所だろうから、僕の安否を尋ねてくれた後に、地震について少し智恵をもらった。彼女曰く、震度5弱なら大丈夫というのだ。これは面白かった。ピンポイントの数字を上げてくれて教えてくれた。彼女の体験から割り出したものなのだろうが、まるで学者のように自信に満ち説得力があった。地震が少ない地方に暮らす僕は、生きた知識をもらったような気がして、少し安心した。  共通の原体験は人と人を結びつけるのにはとても有効な要素だ。お互いを理解するのにはこれが一番だ。一昨日程度のことで東北の人が経験した恐怖を理解できるとは思えないが。二歩か三歩は理解への距離が近づいたかに思えた。