この気温で花火は似合わない。ただこの時期にやるのには理由があって、当事者でない僕が憶測するのは良くないかもしれないが、恐らくあの京都の事故が引き金を引いたのだと思う。  牛窓の花火大会は僕が小学生の頃始まったから半世紀続いていることになる。牛窓は小さな町だけれど海辺と言うこともあって花火には適している。だからこんなに長い間続いたのだと思う。当初は父などが頑張っていたから商工会が主催していたのかもしれない。 そのうち牛窓町の主催になって、その後合併して瀬戸内市のものになった。ただ御多分に漏れず自治体にお金が無く、花火大会も後援くらいの関わりにしぼんでいった。そこで俄然男気を出した集団があって、最近はその集団がボランティアの協力を扇いで花火大会を開催していた。  ある日チラシが入って、花火をこの時期に打ち上げると言う。その理由は花火大会を残念ながら今年を最後にするからその記念らしい。8月に大会を終えて、少し予算が余っていたからそのお金で最後の花火をあげるというのだ。チラシには打ち上げ時間が書かれていただけだったので、どのくらいの規模の花火を打ち上げれるのか分からなかった。だから集団の世話人に尋ねてみたら、数十万円しか余っていないから5分くらいではないかという話だった。本番の時でも僕は見に行かないのだから、最後だからと言う理由で見に行くほどセンチメンタルではない。まして5分と言われれば、あっと言う間だから、わざわざ出かけるほどのものではない。 ところが息子は缶ビールを半ダース仕事帰りに買ってきた。ビールでも飲みながら我が家の2階から楽しもうとでも思ったのだろう。仕掛け花火は見られないが、普通に打ち上げられる花火なら全て見える。ところが彼が家に着いたときにはすでに花火は全て打ち上げられていて、牛窓に入る峠で少しだけ見えただけだったらしい。リビングで残念そうに冷たいビールを飲んでいた。  不思議なことに、花火が終わった頃から牛窓を後にする車で薬局の前の道路が渋滞した。こんなに最後の花火を見に行っていたのかと驚いた。恐らく一人一人がそれぞれの想い出を持ち、感慨にふけりながら空を眺めていたのだろうと思った。人はそれぞれで、僕みたいな無感動の人間から、感激屋の人達までの幅があることこそ社会なのだと再認識させられた。振幅のあちらがいてこちらもいる。だから軸は概ねずれないのだ。