解放

 「何を食べられたかは分かるんでしょう?」「数分したら分からないでしょう」「それでもご飯を食べたかどうかは分かるんでしょう?」「数分したら覚えていないでしょう」プロとしたらその辺りでもう想像がつくのかもしれない。ひょっとしたらその質問は判定の十分条件に近いのかもしれない。今考えれば数分はかなり控えめな数字で、1分か2分と答えても良かったのかもしれない。  施設の人に能力の8割くらいは失っていますと答えたが、我ながらいい加減な答えだ。彼女の質問の時の表情で、食べたことを忘れるって事がかなりの指標になることを感じた。8割どころか9割、いやほとんどと言っていいくらいの能力を失っているのだろうか。姥捨てに通じる罪悪感と日々戦っているが、何とか自分を正当化できる理由を探している。そう言った意味で施設の方の質問は僕には救いだった。  まるで体育館のように広いホールに母のような人が20数人いた。多くの人が無表情で、それこそ母が20数人いるようなものだ。恐らくこのまま施設でお世話になり、やがて亡くなっていく人達だ。勿論今が幸せのようには見えない。虚空を見上げている人も沢山いるし、逆にうつむいたまま身動き一つしない人もいる。無いのは会話と笑顔だ。人がもっとも人らしいものが圧倒的に消えている。ここで又、後ろめたさから少し解放される。