拙文

 「模型のような電車が眼下を走り、雲が手を伸ばせば届くくらいの所に浮いていた。それだけで僕は明らかに日常を脱出していた。城山と書いて「じょうやま」と読む。これも僕には新鮮だった。岡山県を対角線にやってきた甲斐がそれだけであった。 遠慮がちな芝生、謙遜な備え付けのベンチ。何故か知らないが父兄達のボランティア。やけに充実した音響装置。僕は生真面目な聴き手。でも30年のブランク持ち。岡林に始まり、友部で止めたブランク持ち。連れ戻されるのか、新たな発見か、はたまたダンマリの行者か。  第1回目は妻と聴きに行った。2回目は臑に疵がある御法度の裏街道を歩く気の弱い友人と行った。3回目は誰を誘っていこうか。僕があの場所にいる答えはまだ出ていない。いやいや唄に答えなど求めてはいけないか。誰も答えを要求されて歌ってはいないし、唄が答える時代でもない。壇上の歌心に生真面目な聴き手。城山に堂々の春よ吹け。」  3回目となる新見のコンサートについて何か書いてと頼まれたから、この冬上の拙文を書いて主催者に送った。意図して好意的な文章を書くことは出来ないので、没にしてくださっていいですと書き加えた。その後の連絡がないから恐らくその通りになったのだろう。それは僕にとってどうでもいいことなのだ。頼まれればNOと言わないだけで、意に添うというのはかなり苦手だから、見え透いたことはしない。ただ文章とは別の時限で残念なことがある。昨年一緒に行った人が今年は行けないのだ。それこそ御法度の裏街道を歩いて只今塀の向こう側に閉じこめられているのだ。折角来年も一緒に行こうと約束していたのに、僕との約束より酒や博打の方が楽しかったのだろう。無類の音楽とコーヒー好きだから、そこまでで止めておけばいいのに、無類の酒と博打好きとなると失うものばかりになってしまう。もうほとんどのものを失っている。まさに転落の教則本みたいなものだ。 僕の人生で彼ほど笑わせてくれた人はいない。笑いの仕掛け人だ。彼といるだけで日常の緊張から解放された。かなり多くの人が恩恵を被っただろう。ただ、一つ罪を重ねる毎に人は離れていった。新見までの2時間半、二人で一杯笑いながらたどり着き、まだ少し引き締まった空気の中で縛られない時間を過ごすことが出来る1日を僕も彼も失った。  沢山の人を笑わせ心をほぐしてあげてきた人が、笑わせる相手もいない塀の中でどう過ごしているのだろう。きっと恐ろしそうな人の中で縮こまっているのだろう。とても笑えない話だ。