コーヒーカップ

 外側は金色の模様、内側は真珠の表面のように見える。平生使うコーヒーカップの半分くらいの大きさしかないから、それが余計上品に見える。ある会社のセールスが2人でやって来たから、いつものように3人分妻がコーヒーを出してくれた。ところがその時の器が我が家にはすこぶる不釣り合いな前述のコーヒーカップなのだ。絵柄や色彩や大きさ全てが高級に見えるし、それよりも何よりも3つも同じコップが揃うことがそもそも珍しい。コーヒーカップなんて飲めればいいと言う合理主義を貫いているから、我が家のコップは、コップの数だけ種類もある。 ああ、ついに主義を曲げて買ってきたのかと残念に思ったが口には出さずにいた。ところが数日後何かの話の中で、あのコップは教会からもらってきたものだったと教えられた。教会の信者さん達があのコーヒーカップを捨てようとした理由は、揃っていないと言う理由だったらしい。我が家では絶対理由にならない理由だから妻はそれをもったいないと思ってもらってきたのだろう。数十人も集まることがある教会で果たして揃えることが出来るのか、はたまた揃えなくてはならないのかすこぶる疑問だ。ところが教会ではそんな疑問は起こらないらしい。  お金持ちが多いのか、いいところの出が多いのか分からないが、僕ら庶民には分からないところが多い。欠けていなければ価値は十分にあると思うのだが、そしてまだ使えるものを捨てたら、それはゴミになり、新たなコーヒーカップを作るために、新たな資源が使われるなんて結構潔癖に思ってしまうのだが、そんな考えは宗教の場にはいらないらしい。そもそも集団を作るって何かを解決しようと言うよりは、何かを得たいという方が色濃いようにも見える。例えば医師会も薬剤師会も宗教も、あの忌まわしい福島の事故に関して何も言わない。聞こえてくるのは何ら組織に属していないごく普通の人達の声だけだ。今にもかき消されそうな声しか発せられていない。守るべき大きなものがある人達は声をあげて悪戯に敵を作らないが、守るべきものが小さい、しかし取り返しがつかない大切なものを守りたい小市民ばかりが声をあげる。それらの人達が、いとも簡単に捨てられたコーヒーカップに重なって見えてしまう。