陶器

 自宅の近くにゴミの集積場が出来ることを嫌う人がいるかもしれないが、僕は一向にかまわない。僅か20軒くらいの人がゴミを出しても、朝の10時には収集車で集めに来てくれるのだから、何ら問題はない。週に2回の生ゴミの日に、カラスがつついて生ゴミが散乱するが、当番で皆さんが綺麗にしてくれる。田舎のいいところで、誰も不満を言わない。寧ろすぐ傍に集積場があるのは便利さの方が数段優っている。 昨日は、年に1回の陶器と蛍光灯を捨てる日だった。正確に書けば使えなくなった陶器片と使えなくなった蛍光管を捨てる日だ。ところが蛍光管はともかく陶器は、どう見ても使える物ばかりだった。欠けているような物はほとんどなかった。一つ一つは何処が駄目なのだろうと首を傾げたくなるような物ばかりだった。何となく色あせたのか、見えないひびでも入っているのか、茶渋が落ちなくなったのか、ペアの相方がいなくなったのか、どんな理由か知らないが、お暇が出されたのだろう。「もったいない」でノーベル賞をもらった女性がいたが、その方が生きていてこの光景を見れば、恐らくその言葉を連発したにちがいない。ノーベル賞とまではいかないが、ノーベル飴をほおばるくらい出来る僕でも、同じ言葉が思わず口から出そうだ。これが学生時代だったら僕は迷わずいくつかアパートに持って帰っていただろう。当時の僕の生活ぶりから言えばほとんど宝物に近い。今でこそそんな行動は出来ないが、心の中では行動している。  嘗て通っていた教会で、テーブルに並べられたコーヒーカップの不揃いを嘆いた人がいて、嘆いた内容と、嘆いた人物とに違和感を感じた記憶がある。そう言った言葉がもっとも出ない場所と勝手に美化していた自分がいけなかったのだと今なら素直に思えるが、当時はその違和感を払拭するのに少しばかり時間を要した。素材や技術が発達して壊れない物が溢れているが、それらを捨てる勇気はまだ僕の中では壊れていない。何もない空間に憧れるが、物達が壊れる前にこちらが壊れそうだ。