後ろめたさ

 誓約書か問診票か分からなかったが、現在治療中の病気を書く欄があったから、ぎっくり腰と書いておいた。動作の度に顔をしかめるし、痛いという言葉が自然に出てくるからあちらにもすぐ分かっただろう。おかげでスタッフの人がえらく気を使ってくれて、ゆっくりとした動作でいくつかの検査を受けることが出来た。 親だから後回しにされたのだろうが、頼んでから半年が過ぎた。これだけ放っておいても良いのかと思ったが、受けたくない検査だから、それにかこつけてこちらも敢えてひつこく言わなかった。正月に会った時に、ついに日にちを取るとわれたので、毎日を憂うつに暮らしていた。予約の3日前になってぎっくり腰を起こし、キャンセルするのは忍びなかったので気合いを入れて岡山まで妻に連れられて行った。 自分では内臓も血管系もガタガタだろうと思っていたが、意外とまだ大丈夫らしい。特にいつ血管がつまっても不思議ではないような自覚症状に襲われていたので、この結果には驚いた。今日の結果を境に働き方を考えようと思っていたので、出鼻を挫かれた思いはあるが、健診でセーフと爽快感とは相関関係は成立しないかもしれない。病気ではないが快調ではない、こんな所だろう。恐らく多くの方が同じような辺りでなんとか日々をしのいでいるのだろう。緊張を強いられている現代では、完全な脱力は難しいから、戦いの神経が常に亢進されている。休むことを知らない都会のように、休むことを知らない都会人のように、この田舎で暮らす僕たちまでが、いつも何かと戦っている。 息子にまるで近所のおばさんのように話しかける看護師さんがいた。もう40歳は過ぎているだろう、息子よりはかなり年上だと思うが、その会話に安心した。そう言った人間関係の中で育っているから、そう言った人を、そう言った関係をいつまでも大切にして欲しいと思っている。多くのスタッフの協同で患者一人を救うことの醍醐味をてきぱきと動き回っているスタッフの姿に見る思いがした。  時間をもてあまして色々な科を順次覗いてみたが、僕たちの日々の仕事とは天地ほどの緊張感の差がある。僕らの仕事はあくまで命に関係のないレベル。彼らはそれに直結した仕事をしている。会うたびに仕事は楽しいと尋ねてしまうのは、想像を絶する緊張感の中で頑張る息子への後ろめたさかもしれない。