家宝

 家宝と言えるものなど何も我が家にはない。幾ばくかの現金以外、侵入した人も持って帰るものがないのに落胆するだろう。それだけ物に執着しないのだろうけれど、昨日突然に家宝となるべきものが飛び込んできた。これは明らかに我が家にとっては家宝だ。それを手にしたとき僕は思わず感激の声を上げてしまったが、結構妻は冷静で、その道のプロは違うのだとこの辺りでも、初心者の僕はまだまだ修行不足を実感した。それはさておき、早速祭壇に飾った。希望する人には当然見せてあげるが、これはずっと永久にとっておきたい、又とっておくべき物だ。 クリスチャンにとってはマザーテレサと言えばその行い考え方において、模範とすべき存在で、尊敬の的だ。クリスチャンでなくとも名前を知っている人は多い。ノーベル平和賞を受賞した事でも知られるが、寧ろその事によって本来のすばらしさがひどく世俗的になってしまったような印象すらある。寧ろ僕みたいな俗人が軽々しく言葉で紹介しない方がいいのかもしれない。その生き方、あるいは業績などは専門家に任せた方がよい。  さて、そのマザーテレサが着ていたサリー(インドなどの女性が身につける民族衣装)が昨日突然届いた。恐らく彼女がもっていた物はそのサリーと寝具くらいなものだったと思うが、実際に身につけていたサリーが送られてきたのだ。日本で彼女を支援した人達に送られてきたのだろうが、我が家みたいな末端のほとんど何もしていない家にまで届けてくれたことに驚いたし、それだからこそ、今からでもより良く生きよと、困っている人の役に立てよと叱咤激励されているような気がした。それを頂く価値があるのかどうか分からないが、100kmも200kmも先を歩いている人に追いつけるような生き方をしなければならないと思った。同じこの光栄を頂いた人が恐らく全員感じたことではないだろうか。飛び上がるようにして喜んだ僕とは裏腹に妻はその事を瞬時に悟っていたのかもしれない。 「私の白いサリーは、貧しい人のなかで私も貧しい人の一人だというしるし、私の身なりも生活も、病に倒れた人や、骨ばかりの子供とひとつになるための糧。そして、不親切で冷淡でありながら奇跡をおこなうよりは、むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたい」マザーの言葉より。