果実

 社会心理学者Aronsonと言う人が見出した法則によると「人はごく身近にいる親しい人より、関係の希薄な人に褒められた方が、嬉しく感じる」らしい。また、「互酬性仮説」と言う難しい仮説によると「私達は自分に好意を示してくれる人を好きになり、逆に自分のことを嫌っている人を嫌いになる傾向がある」らしい。すなわち、その人の性格や長所や短所だけで好き嫌いを決めているのではなく、相手の自分に対する評価を好き嫌いの判断材料にしているというのだ。ついでにもっと発展させた実験で「相手の評価より、評価の変化の方が、好きになるか嫌いになるかを左右する大きな要因になる。その結果、一貫して好意的に接してくれる人よりも、当初の評価は低くても、ある時点から高い評価をしてくれる人を、より好きになることが明らかになった。つまり、最初から好意的だった人より、当初自分を嫌って冷たい態度を示していても、今は好意的な人をより好きになる傾向がある」らしい。逆も真なりで、「一貫して自分を評価しない人より、自分に対する評価を下げた人の方がより嫌いになる」らしい。 こんな風に言われると何となく頷いてしまう。日常の心理状態として体験的に分かるが、それを学問にまで昇華できるのが学者の学者たるところだろう。普通の人は「そうよね、分かるよね」で終わってしまうから、肩書きも報酬も用意されない。やはり突き詰めていくお宅的な発想がないと学者などにはなれないのだろう。  常識的なのはその世界では非常識で、非常識でないとその世界では常識であり得ない。そう言った逆転の中での存在は僕たち凡人にはとても耐えることが出来ないが、それでこその居心地に安住できる人のみが非凡であれるのだろう。  体系的に整理されればそれまでだが、余り感情まで体系化されると面白くない。まるでハプニングの連続だから何となく明日を待ってみようかと思えるので、文字化された明日と同化するのでは面白くも何ともない。研究の成果は僕らに処世術を教えるものではないだろう。多くの成果がそうであるように、対象とされた人達に果実はない。研究対象はいつも成果とは隔離される者達なのだ。  僕ら庶民にもたらされる果実はせいぜい、垣根の向こうから延びた柿かザクロの実くらいなもの。それも虫や蟻に先手を打たれていたりするから救いようがない。ため息上手の研究ってないのかなあ。僕は良い被験者なのだがなぁ。