霊感

 60歳を過ぎた女性のひいばあさんと言えば、明治の人だろうか、まさか江戸時代の人ではないだろう。いやひょっとしたら江戸時代の可能性もないではない。 僕が牛窓に帰った頃から知っている品がありおとなしい女性が薬を手渡した後、恐ろしいような話を始めた。「私は霊感が普通の人より強いのかもしれない、私のひいばあさんが霊能者だったから」と言うのだ。何でそんなことが分かるのと尋ねた僕に、腰が痛くて立っているのも辛いはずなのに、1年前にあった話を始めた。  とても元気そうには見えないが、こんな人こそ病気はしにくい。その方も60歳まで何の病気もしなかった。ところが60を回った頃から腰が痛くなり、ついに去年腰の手術をしてもらった。その時の話をしてくれたのだ。入院して数日後から、夕方のある時間になると突然、ベッドの上に寝ているその人の胸を人の手が押さえるのだ。胸が圧迫されるから息苦しくなり呼吸もしにくいような感じになる。1時間くらい声も出さずに耐えているとすうっと手が離されて胸の圧迫感が取れるそうだ。3日間同じ事が起こったので、病院に訴えて部屋を変えてもらった。その病室で亡くなった人の霊だと訴えたら変えてくれたそうだ。部屋を変えてもらうとその夜は何も起こらなかったが、翌日から又再開した。今度はもっと症状が激しくて、足先から冷たくなって、そのうち両手まで冷たくなる。それと同時進行で手足がしびれてきて歩いたり物を持ったりできなくなるのだそうだ。胸は圧迫されて呼吸しにくくなるし声を出そうにも出ないし、ムカムカして吐きそうになるがものを食べていないから吐くこともできない。それこそ生きた心地がしなかったと言う。  その症状はいつまでつ続いたのと尋ねると、医師に安定剤をもらってから収まったという。医師は気のせいだからと言っていたらしい。彼女は以来、自分が霊的に感受性が強いことを心配して安定剤を飲んでいるという。僕が処方せんを調剤しながら何で安定剤が出ているのか尋ねたことから全てのこの会話が始まったのだ。  医師が気のせいだといって簡単にすませてしまったものだから、彼女は1年近く無駄な安定剤を飲んでいる。その症状こそが、手術に対する不安による極度の緊張の連続で起こったパニック症状なのだ。そう言った場合良くあることだと説明してあげれば、霊などを想像することは以後なかっただろう。気のせいではなく不安のせいなのだ。もっと心の深いところからわき上がったものだ。その事を医師がもっと丁寧に話してあげていれば良かった。腰の手術で入院したのだから医師もそこまで思いは至らなかったのかもしれないが、やはり丁寧に対応すべきだったのではないかと思う。  病院の白い壁に囲まれて精神を強く持っておれる人ばかりとは限らない。ベッドから見上げる景色に希望が映るのだろうか。揺れるカーテンに、黒ずんだシミに何かが宿っていると思っても仕方ないほど気弱にもなる。弱いもの、弱い人に心を寄せるのは健康すぎる人、力を持ちすぎている人には難しいのかもしれない。明日立場が逆転するかもしれないなどと言う不安感すらその種の人達には起こらないのかもしれない。それこそが社会全体の心の病そのものなのだが。