いくらよい報告でも、まだ夜が明けていない時間帯にされるとどきっとする。この辺りがまだ道半ばの証拠だろうし、そもそもの病気の所以でもあるが、内容が良かったのでまだ許される。 毎日病院に、それも1日2回通っても保険上問題にならないのかと思うが、1年くらいその様にしているから支払基金から問題を指摘されていないのだろう。そうしてみると恵まれた制度に日本人は守られていると思う。逆に整いすぎた制度のせいでとても打たれ弱い自立心のない生物にされている事もいがめないが。  昨夜、何年かぶりにカラオケに行ってブランディーも2杯飲んだという報告なのだが、もうそれは奇跡に近いことだ。年が明けて相談に来たときは浦島太郎かと思った。かつてある分野で秀でていた人で、僕もかなり教えを請うた人だった。嘗てを知っている人にとってはその変容に驚きを隠せないだろう。それが証拠に不調ぶりは噂で聞いていた。親しい人達は気の毒がり、そうでない人達はそれ見たことかと溜飲を下げる。元々関係性において評価は全く二分されるような人だった。  老人は老化と間違われてしまうが、意外とウツを患っている人が多いと思う。鬱々とした症状を病院で訴えても病気ではなく老化と診断されてしまう。だから薬も大したものをもらっていない。勿論沢山の患者が待っているときに身の上話も出来ないから、肩が凝るとか眠れないとかのどうでもいい症状を訴えて、医師の判断を鈍らせる。医師も老人を本気で相手にしていないから、適当にあしらってしまう。「年だから」と便利な言葉に逃げ込んで、次の患者を呼ぶ。 僕はその家庭の状況が分かっていたから、医師の診断も本人の訴えも無視した。医師は便利な言葉で患者を慰め、患者はそこまで患っていてなおプライドを捨てきれない。1日2回診察を受けても距離が縮まるはずがない。お互いが意識して避けていた言葉を僕は敢えて使った。その上で僕は治すことが出来ると思うとも伝えた。ある抗ウツ薬が発明されて一気にウツの患者の数が増えたように、まだまだこの種の治療は発展途上中なのだろう。放っておいても治るものまで抗ウツ薬で治療していると懸念が広まっているが、その程度なのだから漢方薬で治らないはずがないと最近では思っている。もっとも軽症が対象であることには違いないが、それらが草根木皮で治ったら、後々悔いが残らない。昔安定剤やウツの薬をよく飲んでいたとトラウマのように表現する人がいるが、漢方薬ならそれはないだろう。自然の恵みで治るのだから好ましいくらいだ。 杖をつき、ろれつが回らない口で弱音ばかり吐く。そんなことが一番似合いそうにない人がこのまま終わるのは忍びない。強がりばかりの人生にとんだ落とし穴が待っていたが這い上がることは可能だ。大きな声で叫べばいい。そうすれば誰かが縄ハシゴを降ろしてくれる。元々はめっぽう腕っ節が強かったのだから、それにつかまって登ればいい。人生なんてどこかでプラスとマイナスを平坦にされるのだから、粋がるのも弱音を吐くのも人生だ。先行逃げ切りでは馬場の砂でもほぞをかむ。