ある人にメールの返事を書いていて思いついたのだが、人の役に立つ方法って大きく分けると2つに別れるのではないかと思った。  本来活動的な人は、行動やその結果で役に立つ。大きな事を為し遂げて、沢山の人の役に立つ人もいるだろう。上は国家レベルから下は会社の中、地域の共同体の中まで様々だが行為も見えるし結果も見える。さらに言うと、比較も出来る。  それに反して、生来静的な人は、行為そのものより存在自体が回りの空気、回りの人々を癒していて、そこにいるだけで心が慰められる。大それた事は得てないかもしれないが人の心を安らかにする。芸術に於いても激情型の作品は作らないかもしれないが、心の奥深く届く作品を作り上げることが出来るだろう。  どちらが優勢でどちらが好ましいかを決める必要はないし、決められるものでもない。人が何に飢えているかでその時に欲するタイプが異なるだろう。おおむね逆を求めるものだから、エネルギーの固まりみたいな人は静かな人を求め、静かな人は華々しい人を求めるかもしれない。おおむね似たもの同士より、相反した性格の方が上手く行く。激情も静寂も似たもの同士だと火に油を注いで、燃え尽きてしまうか、凍り付いてしまうかだ。 職業柄か、漢方薬を主にやっているからかわからないが、多く訪ねてきてくれるのは後者の方で、少し体力がなくて、少し気力が落ちている。漢方薬は消化機能を上げて体力を増し、その結果気力を充実させることが出来るから、まさに打って付けで、静的な人達の最大の特徴を体力面から援助できるはずだ。最大の個性を十分発揮できるようにお手伝いできなければ僕の存在意義はない。このような人達が世の中心になれば住みやすいだろうなと一人空想にふけるが、えてしてはち切れんばかりの熱量でぐいぐい押してくる人達が世の中を動かしてしまう。身体も性格も機関車のような人達が自分たちの都合に合わせて世の仕組みを作ってしまう。  どっち付かずの僕は、成し遂げられるものもなかったし、いるだけで他者を癒すような持って生まれたものもなかった。寧ろ多くを成す人のおかげを受け、いるだけで十分の人の癒しを受け、それなりの人生を送らせてもらった。それなりの人生すら難しくなったこの国で、物とかお金とかで交換できない価値を体現するのはやはり後者の人に拠るしかないのだ。山は登るだけのものではなく、下るためにもあるのだ。