信号機

 男の子が女の子を自転車に乗せて笑いながら横断歩道をこいでいく。子犬を連れた老婦人が背筋を伸ばして青信号をゆっくり渡る。横断歩道の上で先輩かな、あたかも「よおっ」と声をかけたような仕草の後に、相手の男が自転車にまたがったまま、何回も照れるように頭を下げている。ヘルメットにジャージ姿の中学生の列が続く。厳しい顔つきの青年が渡る。思わず笑顔をがこぼれそうな青年が渡る。おなかを出した女の子が渡る。結婚式帰りの集団が渡る。僕はハンドルを握ったまま、フロントガラスの向こうの光景に見いっていた。辛いことばっかりの日々だった。ガラス一枚向こうの光景をすっかり忘れていた。こんなにすがすがしい世界があることを忘れていた。心も身体もボロボロで、何のとりえもないけれど、失ってはいけないものを最後の力で握り締め、許しを請いながら、踏みつけられても、倒されても生きていこう。剥ぎ取られた自尊心をいつか取り戻すことが出来るように、僕をもう一度一人の人間として認めてもらえるように。信号が青に変わる。涙を拭いてアクセルを踏む。