雪雲

 耳を疑った。いや、新聞だから目を疑った。いやいやこんなことがと呆れ、怒るのダブルだから耳も目も疑う。
 毎日新聞の朝刊で読んだ記事なのだが、脱北者2人から異常に高い値の放射線量が検出されたらしい。その値は394ミリシーベルトで、広島に落とされた原子爆弾の爆心地から1.6kmの場所の初期放射線量に匹敵するらしい。簡単に言えばあの有名な原爆ドームからわずか1,6kmのところに立っていたと同じことなのだ。そんな人が健康でおれる訳がない。
 実際、その脱北者は地下核実験場から20kmくらい離れたところに住んでいたらしいが、その距離でも原爆ドームのすぐそばに立っていたと同じ量を浴びるのだ。空中を飛散していくものに、20kmなんてないが如しの距離だ。多くの住民が体調不良を訴えているというから、地下核実験場から大量の放射性物質が漏れているのだろう。原爆は作れても、放射性物質が漏れないような構造物を作る能力はないのだろう。向こうのニュースを見ていたらそんなものが作れそうにないのは明らかだ。あの機械も技もないところで、原爆以外作れそうなものはない。
 さっき、久しぶりに放射線測定器を出して測ってみた。数ヶ月前に測ったのと同じ程度の値だった。これからは、「倒電」の為だけではなく北の将軍様の火遊びの影響も時々測ってみなければならない。そしてその結果によっては、日本海側の魚も口にしないようにしなければならないかもしれない。富山以西は自分の中では食べていいものにしていたのだけれど。雪雲を映す気象衛星の写真を見ていたら北の将軍様の核実験場の真上あたりを通った雲が日本海を渡っているのがよく分かる。ゆめゆめ、あまりの綺麗さに雪を食べたりしないで。

記録

 僕は来日早々のかの国の女性たちに必ず聞く事がある。それは日本滞在中にかなえてみたい夢があるかどうかだ。その夢の実現が僕にとって簡単なお手伝いで済むなら協力を惜しまない。ところがこの10年間で3つだけかなえて上げられなかったことがある。
 ひとつは東京に行くこと。外泊は即帰国だし、門限を守らなかっても即帰国の厳しい会社だから、東京の日帰りは難しい。やろうと思えばできるがそれで得るものは多くない。富士山を見るのも同じような理由だ。富士山は見える日と見えない日があるから、博打のようなものだ。高額な新幹線代を払って、多くの時間を費やして行って何も見えなかったでは泣くに泣けないので断っている。そして最後が着物を着るということだ。これにも大きな障壁がある。まず何人分もの着物がない。そしてそれを着せてあげる人もいない。この二つが揃わないとできない。夏に初めて浴衣を着せてあげたのだが、とても喜んでくれて、浴衣を着物と偽ってそのまま続けることは出来るのだが、そこまで彼女達は無知ではない。日本に来ることが決まった時点でそのくらいの知識は得ている。だから着物を着てみたいという夢を口に出す女性は一番多い。
 玉野教会にお正月には必ず着物で来られる女性がいる。一か八かと言うより、だめ元でふと漏らしてみた。すると何と数着の着物を持っているというのだ。数着もの着物を持っているという意味が僕には分からなかったが、理由はともあれひとつの障壁をクリアした。二つ目は当然着こなしているのだから問題なし。どうしてもっと早くお願いしなかったのだろうと悔やまれるくらい簡単に引き受けてもらった。教会でいつも奉仕をしているから、人のお役に立てることだったら何でもやってくれる人なのだが、まさか6人まで着物をそろえてもらえるとは思わなかった。
 着物を帰国前に着ることが出来ると伝えたときの喜びようはなかった。今まで50人以上の夢がかなわなかったのだが、その夢が最初にかなう6人になったのだから。そして今日教会で憧れの着物を着せてもらった。運のいいことに、着物を縫っているという女性がお手伝いに来てくれた。これで鬼に金棒。1時間くらいで全員に着せてくれた。その後は彼女達の得意中の得意、写真撮りまくりの時間だ。あおりを食って僕は3人分のカメラのメモリーを買いに行かされた。あまりにも悲しい顔をして身振り手振りで頼んでくるので、「心にメモリーはないのか!」と言ったが、今日の女性達は3ヶ月の応援部隊だから日本語は全く分からない。冗談も通じない女性達に冗談のような世話をさせられた。
 今寮から帰って来たところだが、写しまくった写真を皆で見ていた。さっそく「いいね」が沢山集まっているらしい。僕には「どうでもいいね」だが、着物の美しさとともに、日本人の持っている心の美しさもまた心のメモリーに記録して欲しい。
 

 

 よくもこれだけ不調の人間が集まったものだと感心するのが、僕が事務方をしている漢方の研究会だとしたら皮肉なものだ。僕のトラブルなどかわいいものだと思えるほどだし、ある男性薬剤師の話を聞いていたら涙が出そうになった。
 僕が年齢構成で言うと真ん中くらいと言うと、どれだけ高齢化しているのかと思うが、日本の実情どおりの構成をそのまま反映している。だから、不調があっても当然だし、薬剤師の性として、自分は二の次と言うのが身についているから、なかなか検診など受けない。僕など二の次どころか百の次、千の次だ。何かの病気になって初めて慌てる。ただそれが取り返しのつくものならいいが、時に取り返しがつかないこともある。僕の研究会でも亡くなった方が数人おられる。特に優秀な方々は、優秀ゆえ難しい患者さんをお相手することが多く、緊張を強いられたのだろう、
 希望に燃える祝いの新年会で、出るのは体調不良の話ばかり。研究会の先生の話を聞いていても、僕のことを言っているのかと思うほどだった。おそらく会員の多くもそう感じたに違いない。講演を聴いていると、その内容を是非試したいと患者さんの顔が本来なら多く浮かぶのだが、自分が漢方薬投与の対象みたいで、いつもより身が入る。

 

分包機

 背に腹は代えられないから煎じ薬を作る分包機を買うことにした。いつまで僕が薬局を手伝うことが出来るかわからない。せめて手作業部分だけでも機械化して、娘夫婦の負担を少なくしておいてあげようと思った。来週にはメーカーが運んできてくれるらしい。これで数人がかりで作っていたものが、1人で出来ることになる。
 昔からの薬局だから、病院の処方箋調剤あり。OTCと呼ばれる軽医療のための薬あり、そして漢方薬あり。どれにも偏っていないつもりだから、田舎にあるにしては結構忙しい。時に、それらの人が重なるとてんやわんやになる。そんなことは滅多にないのだが、滅多にないことに備えるのも必要なのかもしれない。
 以前からこの機械には関心を持っていて、中古品でもあればいいなと悠長に構えていた。ところが年末からのドサクサで備えていたほうが安心だと気づかされた。もう中古を待つなんて選択肢は無くなった。漢方薬局が減っているのだから、廃業を機会に分包機を手放してくれればいいのだが、そもそも分包機を持っている薬局自体が少ないし、持っている薬局は倒産や廃業をしない。だから現代薬の分包機ほど出回らないのだ。
 若ければ好奇心で、どんな機械が来るのだろうと、子供のようにはしゃぐことも出来るのだろうが、僕の年齢になるとまず「使えるのだろうか」が先に来る。まさかAIではないから僕にでも使えるだろうが、変ることや新しいことに何となく気が重たくなってくる。特に最近はその傾向がはなはだしい。心は二十歳、体は80のギャップに苦しんでいたが、段々そのギャップが埋まり、今では心身ともに老人になりきっている。やっとバランスが取れてきた。これは、おめでたいことか。

注射器

 当日は麻酔をかけるから、車を運転してこないように、出来れば家族の方の付き添いをお願いしますと言われていた。注意書きにも、もし一人で来られる場合は公共交通機関を利用のこと、違反すれば検査は行わないとも書いてあった。だから今日は妻に連れて行ってもらう予定だった。
 ところが正月明けの昨日がとても忙しかったので、娘夫婦に「悪いけれど明日は一人で行って来て」と言われた。あちゃっと思ったが、薬局第一の僕はすぐにそうすると答えた。麻酔が覚めるのに2時間くらいかかるらしくて、2時間経たなければ自由には動けない。まあ病院だから何かあれば助けてくれるだろうとあまり心配はしなかった。1人暮らしの人だったら当たり前のことだからこれも体験と前向きに考えた。この1ヶ月、まるで未体験ゾーンに放り込まれたような毎日だったから、ついでにとことん経験しておこうと不思議な積極性も出てきた。
 電車で岡山駅まで行き、そこから歩いて川崎病院まで行くのだから、逆算すると牛窓を6時半に出なければならなかった。目覚まし時計を5時にかけて、その音で目覚めた。昨日は開店初日で薬局が忙しく、その前々日は11人を連れての神戸旅行で疲れ、その両方で目覚ましの力を借りなければ起きれなかった。本来僕は目覚まし時計より早く起きるタイプなのだが、さすがに年末のハードな日々からの疲れを溜めていたのだろう。
 とにかく仕事をしたくてもできないのだから、有意義に「休もう」と決めていた。休むことにも意味づけをしないと休めない前時代的な血をまだ持っている悲しさだ。約束の時間になると看護師たちが順番にやってきて愛情を込めて?慣れた手順で世話をしてくれた。そして最後にベッドに横たわり左を向いて下さいと言われた当たりで疲れがどっと出て来て眠くなった。やっと眠れる、どうせまな板の上の鯉だから寝ていればいいのだ、人が働いているこんな時間でも堂々と寝ておれると考えていたら今にも寝てしまいそうだった。看護師がもうすぐ麻酔薬を点滴で入れますと教えてくれたのだが、その1秒後には恐らく僕は完全に眠りに落ちていたと思う。思うと書いたのは、当然目が覚めるまで記憶が全くないからだ。だから今でも僕は、疲れきっていたから麻酔薬のおかげではなく自然に眠りに入ったのだと思えて仕方ない。確かにその後麻酔薬を入れたのだろうが、ひょっとしたら麻酔薬は必要なかったのではないかと思ったのだ。
 2週間前から今日麻酔をかけられる事を聞いていた。麻酔薬には少し抵抗があったけれど、今日の体験から言うと何の問題もない。確かに半日くらい100点の性能は維持できないが、90%くらいは保障される。もともと90%も怪しいのだから問題はない。もし今日のように一瞬にして眠りに入れるなら、そのまま永久に目覚めぬ眠りに入れてくれても問題はなかった。もう少し濃度を上げてくれさえすれば可能だ。正に疲れきって布団に横たわり、あっという間に眠りに落ちる。その幸せな眠りを注射器ひとつで実現できる

無意識

 毎年仕事始めのこの日に繰り返す過ちがある。恐らく僕だけでなく多くの人が同じミスをしているだろう。世界規模かもしれない。
 機械で打ち出す病院の薬は別として、漢方薬に関しては手書きで薬の袋に名前や日付を書いている。名前を書き損じることはないが、日付に関しては朝から間違い続きで、いくら薬袋を無駄にしたろう。9割以上の確率で書き損じたから、かなりのものだ。この9割も例えば午前中に限って言えば10割近い。ほぼ全員間違えた状態だ。
 無意識の内に29年と書いてしまう。それはそうだろう、1年間無意識の領域に閉じ込めた29年だから、頭より手の方が先に動いてしまう。29年と書いたところでそれでも何故か100%気がつく。この気がつくのもまた不思議だ。無意識にうちに間違ってしまうことへの警戒心が備わったのだろうか。
 考えなくても反射的に体が動く?自転車に乗ること、そろばん、車の運転もそうかもしれないし、泳ぐこともそうかもしれない、あとは・・・思いつかない。考えてみれば若いときに手にした習慣以外は、反射的に出来ることなどはない。今では時間差攻撃もはなはだしい。
 来年には平成が終わるから、いっそのこと西暦を使おうかと考え昼からは2018を使ってみたが、自分では慣れていないのと4文字になるからやはり平成を使うことにした。どうせ数日もすれば30と言う数字を反射的に書くことが出来るようになる。毎年繰り返す間違いだが、毎年新たな習慣をあっという間に身につける。どうでもいいようなことに拘れるのは世の中がまだ平安な証拠だ。ただし明日の保障などなにもない。十勝沖が激しく動くか、東海か南海か。激しく動くのは大地だけではない、北の将軍様やカルタだけではない。民衆と一くくりにされる人たちだってときに激しく動く。

 昼過ぎにほんの一瞬だが雪が降った。降ったと言うより空は晴れ渡っていたから北の空から風で流されてきたって感じだった。空気は頬を切るくらい冷たかった。その時間帯にウォーキングをする習慣はないが、ひょっとしたら危ないのではと思いながらも中学校のテニスコートに出かけ何周もひたすら歩いた。暖房の利いた部屋でテレビでも見ていればいいのだろうが、劣化したテレビ局に満足させてもらえるほど、こちらのお頭は劣化していない。多くの人たちが同じ思いでいるのではないか。仕方ないからウォーキングをし、仕方ないから専門誌を読み、仕方ないからインターネットの前に座り、仕方ないからつい最近覚えた中島みゆきの「糸」を歌った。仕方なくの連続では時計の針は進まない。明日からの仕事のためにモチベーションを上げておきたいが、いまだ寒暖計の目盛りのように氷点下状態だ。明日の朝までにとにかく心に氷が張らないところまで上げておかなければならない。新年はこんなにどんよりと明けていくのか。僕には招かれざる客になった。